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牧野 康成(まきの やすなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・譜代大名。徳川氏の家臣、はじめ三河国牛久保城主、のち大胡藩主初代。 == 履歴 == * 本節は特に注記のあるものを除き、下記参考文献の1、266 - 267「寛政重修諸家譜巻第三百六十四・清和源氏支流・牧野」の康成の項を参考に記述している。 永禄9年(1566年)、牛久保城主であった父・成定の病死をうけて11歳で遺領を相続する。その際に一族牧野某(出羽守・成元また成真とも、同名保成の子)と遺領争いとなるも、徳川家康の承認と後援の結果、成元を退け相続に成功した〔参考文献の2、12 - 13頁、〕。争いの原因のひとつに康成が今川氏の人質として1両年(2年間)身柄拘束され(一説に吉田城で)、牛久保に不在であったことが挙げられる。 徳川家康に仕えた後は、その東三河旗頭である酒井忠次に属し、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、家康の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げ、また家康の指示により天正年間は諏訪原城(遠江国)・興国寺城(駿河国)・柾戸城(伊豆国)・長窪城(駿河国)と諸城を在番し、家康の東海道平定戦に寄与した。その功績により、天正16年(1588年)4月までに従五位下右馬允に叙位・任官、この時の口宣で清和源氏を称姓した〔参考文献の2、17頁・「柳営実録」の引用文。〕〔『寛永諸家系図伝』の編者注によるとする(参考文献の3、372頁)、および康成の源氏称姓時期は天正16年の従五位下右馬允任官の際の口宣案とする(参考文献の3、374頁)。〕。また天正18年(1590年)、家康が関東に加増移封されると、上野国大胡に2万石の所領を与えられ、大名に列した〔ただし、牧野氏及び牧野康成は、徳川家康(松平氏)に先祖代々仕えた譜代の家臣ではなく、家康が桶狭間の戦いの後に岡崎に自立して三河を平定して行く過程で、その軍事的圧力に屈して征服された経緯を持つ。はじめ牧野康成は酒井忠次配下の東三河の国衆の一人とされて、家康・譜代の家臣団とは区別されていたが、大胡移封のこの時に譜代大名に列したものである。〕。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)が守る信濃国上田城攻めに参加した。徳川方の刈り田働き阻止をめぐる偶発的戦闘で、康成は友軍の危機を救援することを命じたが、これが城攻めにまで発展した。しかしこの城攻めは秀忠に無許可で、しかも結果は惨敗であったため、康成はその責を問われた。直接指揮をした部下の贄掃部を切腹させるよう命じられたが、康成は自ら責を負うとしてこれを拒否した。嫡男の忠成もこの命令に逆らい、贄らを伴い出奔したため大いに秀忠の怒りを買い、康成は上野国吾妻に蟄居処分となる〔下記参考文献の2、21 - 22頁および188 - 189頁。〕〔牧野隊は真田方の策に気付かずに康成・忠成父子の指揮の下、上田城下に攻め入っており、家臣たちの助けで危うく難を逃れた。旗奉行の贄掃部は主君の失態の身代わりとして切腹を命じられていたとされる。〕。 その後、慶長9年(1604年)に徳川家光が誕生したことによる恩赦で処分が解かれ、大胡藩2万石に戻った。ただしこの間、お取り潰しの状態ではなかった。この時より公事は、嫡子・忠成にまかせて大胡に閑居し、そのまま1609年(慶長14年)12月死去した。法名は月照院殿前典厩応誉栄感称徳大居士。葬地は群馬県前橋市堀越町の浄土宗養林寺。 == 馴れ合い説 == 関ヶ原の合戦に遅参した徳川秀忠は、父・家康の怒りに触れ、また諸侯に対して恥をかいたが、軍令違反を犯し切腹を命じられた張本人である贄掃部は、なぜか紀州家の徳川頼宣に再仕官している。 家康は、秀忠の遅参を、親子ではじめからもくろんだものだとの指摘がある。関ヶ原の合戦で、家康は外様を主力に使って戦う一方、譜代の家臣で編成された秀忠軍は、無傷で残そうとしたという(講談社プラスアルファ新書など)。 しかしこの異説には、関ヶ原の合戦前夜は東軍と西軍の実力が伯仲していて、家康にそれだけの余裕があったとは到底考えられず、また推論が飛躍しすぎているとの反論がある。 家康が死亡した3ヶ月後に、秀忠は大胡牧野家に3万石の加増を命じたが、移封先の長峰には着任しないままさらに加増されたともいい、結局大胡から越後長岡に知行を3倍に増やして栄転した。また康成の庶子の儀成(備後守成貞の父)の旗本の召し出しが新知をもって行なわれたり、その後も牧野家はたびたび加増された。 いずれにせよ牧野康成は、秀忠の責任要員としての責務を全うして、後に加増を受けたとする。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「牧野康成 (大胡藩主)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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